プロフィール

プロフィール

山本憲明(やまもと のりあき)

H&Cビジネス株式会社 代表取締役

山本憲明税理士事務所 代表
税理士・中小企業診断士

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○出身

1970年5月21日 AM3:10 兵庫県西宮市生まれ
18歳まで、兵庫県西宮市(海側)育ち

○肩書き、資格

税理士
中小企業診断士
気象予報士
アマチュア無線技士4級
中小企業庁 経営革新等支援機関
日商簿記検定2級・3級
地方競馬馬主
少年野球指導者(資格あり)

○プロフィール

大学を卒業後、東証一部上場電機メーカーにおいて技術、
営業、経理の仕事を経験。仕事はそれほどできず。
1998年、一念発起して勉強を始め、まず気象予報士試験に合格。
そのあと簿記知識ゼロから税理士試験の勉強を開始。
4年間で合格し、2004年税理士に。2005年開業。

開業当初は必死で営業活動を行い、一年目でお客様が
40社ほどになり、人を雇って事務所を借りる。
多いときは6名事務所で仕事に来てもらっていた。

しかし、仕事ばかり増えて時間がなく、お金も残らない状況になり、
将来性なども考えて縮小方向に。
結果的に現在はスタッフ1名、顧客数はそれほど減らず
時間もできる状況に。

執筆にも力を入れ、
・「朝1時間勉強法」43,500部(+文庫化)
・「仕事が速い人と仕事が遅い人の習慣」142,500部(+ムック本)
・「社長は会社を大きくするな!」20,000部
などのヒットを飛ばす。

「ひとり経営」を標榜し、一人もしくは少人数での経営を研究、
それについての情報を発信しながら、少人数経営の
会社のサポートを行っている。

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西宮市西田町で育ち、和光幼稚園卒業。
1977年、大社小学校入学。
学校の前の坂にお茶を流す遊びを覚える。
1978年7月、西宮市泉町に引っ越し、浜脇小学校に。

小学校時代にはザ・ベストテンと不二家歌謡ベストテンにハマる。ザ・ベストテンは毎週得点を記録し、年間ベストテンを事前に把握。

他にやっていたのは少年野球。2年次には尼崎の、元阪神選手が
やっていたチームに体験に行くも、練習のきつさに断念。
3年で入った少年野球チームも、監督が怖すぎて退部。新しくできた
「夙川ファイターズ」に入部、何とか卒業までやり通す。
とにかく少年野球は水も飲めないし、つらい思いしかない。
毎日毎日、「練習早く終わらんかな」としか考えていなかった。

小6ですでに身長が170㎝を超えていたこともあり、なぜか
モテた(気がする)。小6のバレンタイン、チョコレートを10個以上
もらい、今思えばそこがモテ期の全盛期だった。

中森明菜さんが好きで、似ていた女子が好きになるも、
追いかけまわすなどして嫌われた。

1983年、浜脇中学校入学。部活動をバスケか野球で悩むが、
家のすぐ近くの香露園浜に、バスでセンバツ出場中の練習に
来た横浜商の選手たち(元中日三浦投手、高井選手、元ヤクルト
荒井選手を間近で見て憧れ、僕も甲子園を目指したいと
野球部入部を決意。

中学野球は割とゆるく、最高学年になるとバッティング練習で
勝手にホームラン競争をしたりした。それでも3年の春、
報徳学園を破って西宮市の大会に優勝。決勝戦では
6回にセンターですべてのアウト(フライトライナー)を処理。

野球引退後もとくに勉強はせず、友達と河原で喋ったり
麻雀したりの生活。高校受験の勉強は1か月くらい、
ささっとやった程度しか覚えていない。ただ、倍率が
1.06倍とかでほとんど合格するので、もちろん合格して
地元の県立高校(西宮今津)に入学。

当たり前のように野球部に入部するが、やはり高校の野球部は
生半可ではなかった。まだ入学式前の練習で1年生全員が
ビンタをされたりした。1年夏までの練習もほぼ走るだけ。
たまにバッティング練習をやらせてもらえるが、まったく打てず
左に転向させられる(実は中学まで左投げ右打ち)。
もちろん左でもまったく打てず。

1年夏に新チームとなり、2年生が少なかったためレギュラー
になれるチャンスがあったが、打てないため出られず。
一念発起して投手へのチャレンジを監督に懇願する。

希望通り投手をやらせてもらうも、コントロールが悪い
こともありなかなか結果を残せず。1つ上の先輩と
1つ下の後輩(プロも注目していた)がいい左投手で、
挟まれて登板の機会もなく、2年夏はブルペンで過ごした。

2年秋の大会に開眼し、ブロック決勝で完封。県大会
(160以上チームのなかで32チーム出場)出場を決める。
しかし初戦の相手は東洋大姫路。昔憧れた相手。
試合前の整列で「すごい」と思ってしまい、
いきなり連打で失点し、完敗。

そこからは走り込みを増やして制球力を上げ、夏までの
練習試合では甲子園出場チーム相手でも無失点の好投
など実力を積み重ねていく。

迎えた夏の初戦、手ごたえがあり今までにない緊張を
感じていた。4回まで0-0も、普段全く球をそらさない
捕手がそらした振り逃げから始まり、名手のセカンドも
満塁でホームに悪送球するなど一気に5失点。
そのまま0-6で敗れ、高校野球生活が終わる。
最後の試合直後にロッカールームで泣いたのが、
これまで人生一番の号泣。

高校野球に打ち込んだ2年半を終え、受験勉強に切り替える。
はじめは手探りだったが、目標を打ち立て、自分で計画を立てて
それを毎日着実にこなしていくという当たり前のやり方で進めた。

夏休み以降、学校がない日は友人と朝図書館に並び、
席を確保して夕方まで勉強する毎日。帰宅してからちょっと
昼寝をして食事をとり、また夜中まで勉強。
あまり時間もないので基礎からやらず、赤本(過去問)を
わからないながらも解いて、出来ないところに戻って
勉強するというやり方ですすめた。

元号が平成に変わってすぐの大学受験は、不安からか
6つの大学、11学部を受けたがすべて合格できた。
東京への憧れが強く、早稲田大学に進学することに。
受験期間中に中学時代の友人の家、いとこの家などにも
泊まらせてもらい、東京競馬場初体験などもした。

早稲田大学政経学部経済学科に入学。引っ越しと入学式
のために父母が来たが、入学式を終えて一人下宿に
帰ってきたときの何とも営内寂しさは今も忘れられず。
段ボールの切れ端に綴った、母の手紙を読み返すと
今でも涙が出る。

大学では語学クラスに付属高出身の人がたくさんいて、
標準語(当方関西弁)で仲良く話している輪の中に入れず、
自然と授業に足が遠のき、サークル(野球)活動にいそしむことに。
硬式野球部の練習を見学しに行ったが、レベルの高さに
ついて行けないと思い込み、入部せず。

野球サークルは割と本格的活動で、同好会チームの
大会ではほぼ毎年関東大会に出場し、神宮球場で
試合をすることも。1年次の準々決勝、神宮で完封
したことが印象に残る。2年以降は肩を痛めたり
調子を崩して投手としてはダメになるが、のちに野手
として再度神宮に出場。

平日行われる野球の試合に参加しては夜麻雀、
あるいはアルバイトという生活を続けていたため、
2年終了時に早々と留年(4年で卒業できない)が決まる。

学生の5年間は、野球・麻雀・競馬・バイトなどで
殆ど勉強もせず堕落したしかし楽しい生活を送り、
親にも学費や生活費で迷惑をかけた。ただ、
モラトリウムな5年間は価値があるにはあったと、
今振り返れば思われる。

1993年(5年生時)の就職戦線は、バブルも本格的に
弾け、留年したこともあって非常に苦しい戦いになった。
数百社にはがきを出し、50社以上に足を運んだと
思うが、なかなか内定に至らない。

企業研究とか自己分析とかはあまり必要ないと思って
いたため、「会社にいる”人”で選ばせてもらう。会社も
僕という”人”を見てほしい」と生意気なことを言ったのが、
今思えば苦しんだ理由かもしれないが、なぜか評価を
してくれる会社があり(そういう会社に入りたかったので
よかったのかも)、内定を初めにもらった横河電機株式会社
に行くことにした。

横河電機はとてもいい会社で、人に優しく、リストラによる
人材整理をすることもなく、女性の管理職も多かった。

新入社員1年目は5月まで研修メニュー(甲府での工場研修
1か月もあり)をこなした後、
新宿センタービル48階に営業研修名目で配属された。
いまだによくわからない(知識がないため)制御機器
を売る部署で、僕は展示会などに来た中小企業に
電話をして売り込みをするような仕事をさせてもらった。

しかし製品はまったく売れず。部長がいて、美人の秘書的
な人がいて、課長がいて、平社員が何人かいて、女性も
何人かいて、といった感じで、社会全体の縮図のようなもの
を見た気がする。

当時、1年先輩の仕事が出来そうな方に言われた一言。
僕「ああ、もう8時かあ(たまの残業をして疲れて)」
先輩「何言うてんねん。まだ8時やろ」
その先輩は今どうしているのだろうか…

9か月の営業研修の後、「スタートアップ(お客さんの
ところに製品を実際導入すること)研修」で、岐阜県の
中津川と三重の四日市、桑名などに。
あまりよく知らない先輩社員(無口な方)と同じ部屋に
宿泊した時の気まずさはいまだに印象深い。

入社2年目の1995年4月、本配属で「テスタ事業部」へ。
当時隆盛を誇った(今は流星に)半導体試験装置を開発、
営業するなどの部署。半導体は景気のサイクル(シリコン
サイクル)があり、行った時はかなり売れて業績も
相当よかったが、その後売れなくなっていった。

半導体試験装置はとにかく難しくて、営業でいきなり配属
になってもお客さんと話ができないので、まずはお客様
の半導体製造装置とつなげるためのソフトや回路をつくる
「アプリ」という部署で修業を積むことに。

BasicやC言語を学び、実際にはんだごてを持って回路を
組むなどの貴重な経験をさせてもらった。

この半導体テスタの部署は残業が半端なく、月100時間を
超えることも多く、「俺はめちゃ頑張ってる。充実してる」
と勘違いしながら夜遅くまで残業していた。
深夜に先輩社員と交わした言葉などはいまだに覚えていたりする。

1997年11月に結婚。

テスタアプリ部署での仕事は長引き、あっという間に
入社5年が経ってしまう。1998年2月に2週間、アメリカ
テキサス州サンアントニオに出張と貴重な経験をさせて
もらったが、やはり電気や技術的なことがあまり好きになれず、東南アジアに行ってほしいという事業部長のお願いも(野球ができなくなるという理由で)断ったりして、出世をあきらめる。

もう一度人生を考え直す機会を持ち、自己分析もした
結果、「何かの資格を取って独立しよう」という結論に。
まずは当時話題に上っていた「気象予報士」にチャレンジ。
毎日1時間と少しの勉強をし、2回目の受験で合格する。

ただ、よくよく考えてみると、気象予報士で独立開業
するのは難しいことがわかる。高額な機械を買わなければ
ならないし、当時は気象会社と契約するような企業などは
殆どなかった。

1999年、小さな会社を経営している父の入院を機に、
元々数字が好きだったこともあり、経営や会社のこと、
会計のことを学びたいことも相まって「税理士」試験を
受けることを決意。まずは簿記のマンガを読むことから
スタートした。

マンガで簿記に興味を持ち、簿記検定3級と2級を
1999年6月に受験、合格。夏から資格の専門学校に
通って税理士試験合格のための勉強を開始した。
1999年6月、長男誕生。

行った専門学校は水道橋のTAC。簿記論と財務諸表論
という「会計2科目」を受講するため、平日3日と
土曜日の週4回水道橋まで通った。残業が慢性化して
いた生き方から急に定時帰りの生活に。

ただ、簿記の勉強を始めたころ、アプリ部署から
「(半導体)テスタ事業部室」に移動させてもらい、
事業部の予算や会計などをやらせてもらっていた。
その後経理に異動させていただくことも含め、
従業員の希望を叶えてくれるとてもいい会社だった。

急に量が増えた勉強は、やはりつらいものだった。
平日定時まで仕事をしてから水道橋に行き、そこから
小金井の自宅まで帰る。行きは授業に備えて
電車で休息をとるが、帰りはその日の授業を電車に
乗っている間に完璧に復習することを自分に課した。

2000年の第50回税理士試験、簿記論と財務諸表論
を受験して何とか両方合格。合格通知をもらい、
小躍りした。

しかし2001年に受験した消費税法と法人税法は
どちらも撃沈。かなり落ち込んだがすぐにまた
コツコツと勉強を再開。
夜は眠くて勉強できないため、早起きして早朝に
勉強するスタイルを確立した。
2001年8月に次男が誕生。

2002年には最難関の法人税法に合格、そして
2003年、消費税法と相続税法に合格し、晴れて
5科目合格、税理士資格を得ることが出来た。

2003年には無謀にも千葉県船橋市にマンションを
購入し、1時間半かけて三鷹まで通う生活。
2004年、税理士登録、独立を決断し、準備に入る。

ブログ(楽天日記)を書き、ホームページを作り、
メルマガも発行した。多くの人と会いに行き、
多くの会に出席するなどする。

2004年7月にあるメールマガジンで見た「東京ドーム
で野球をやりませんか」という記事に飛びつき、
「21時(クジ)から倶楽部」という交流会主催の
草野球に参加。そこでメルマガを発行したり
起業して儲けている人と知り合いになる。

その21時から倶楽部が10月に開催した
「出版しようぜ!パーティー」に出席した。
素人が企画を出してプロの編集者などに
評価してもらい、いいモノがあれば本になる
という企画だった。

はじめはパーティーにのみ出席するつもりが、
折角だから出してみてはと言われ、企画を提出。
「税理士試験に最短で合格する方法」といった企画。

パーティーの席では誰にも評価されなかったが、
出席していた編集者の知人である編集者が、
たまたま資格試験合格シリーズものを作ろうと
していて、それに僕の企画が合致したため
打ち合わせをすることに。

はじめは怪しい話かと身構えていたが、実際に
書籍の企画だということがわかり、話は進む。
初めての経験で戸惑ったが何とか執筆をし、編集
作業をしていただいて、「税理士最短合格の時間術・勉強術」
(インデックス・コミュニケーションズ)が発売となった。

ターゲットの狭い本だが意外に売れて、7回くらいの
増刷を重ね、最終的には19,500部まで行った。
この類の書籍では売れたほう、ということで
幸先のいいビジネス書著者デビューだった。

2004年12月に横河電機株式会社を退職し、翌
2005年1月1日に山本憲明税理士事務所を開業。
といっても初めはお客さんもゼロ(厳密には
父の会社がお客さんになってくれた)でやる
こともなく、開業の日には妻の実家で過ごし、
翌日から6日くらいまで西宮の実家で過ごす。

帰って来てからも仕事は特になく、前年の
続きでHPを作ったり、ブログやメールマガジンを
書いたりして認知してもらえるよう努力していた。

会計事務所経験のないまま開業してしまったので、
何をやっていいかよくわからない状態。
楽天ブログで知り合った税理士の方に頼み込んで、
週1か2回、神田の税理士事務所でバイトさせてもらった。

この経験は貴重で、会計事務所の仕事やしきたり、
税理士の方の考え方など、短期間であったが非常に
多くのことを学ばせていただいた。今でも感謝している。

そうこうしているうちに、ホームページやブログ、
親切にしていただいた行政書士の方、税理士紹介会社
(当時少し利用していた)などから法人の仕事や
確定申告の依頼などがいくつか舞い込み、3月には
まずまず仕事が増えてきた。

1回目の確定申告が終わり、さらにそうこうしている
うちになぜかどんどんお客さんが増えた。6月には
顧問先が20社程度になり、西船橋の駅近くに事務所
を借りることになった。

事務所と言ってもマンションの一室だが、多い時で
同時に3人来てもらい、仕事を手伝ってもらった。
お客さんも順調に増えて仕事も増え、すぐ手狭に
なったので、事務所仕様の20坪物件を借りることに。

礼金敷金なども高かったが非常に快適で、これから
大きく伸びていく税理士事務所という雰囲気だった
かもしれない。

公認会計士の資格を持つ正社員も雇い、最大で7名
の大所帯になったが、ここで山本の頭に不安が生じる。

「これからずっと、給料を払わなければいけない」

月の給与総額が100万円を超える。僕の力で毎月
100万円や200万円を生み出し続け、支払い続けなければ
ならないということに、大きな不安を感じた。

数か月相当悩み、色々な人に相談をして、出した結論は
「縮小すること」だった。解雇などはしていないが
自然に一人、二人とスタッフが離れていき、
最終的に現在の「スタッフ1人」という形になった。

事務所も大きな箱からだんだん小さくなり、2012年から
自宅により近い、メゾネットタイプのアパートに。
自然とお客さんも絞られていった。

経費も極小とし、小規模経営を自分が運営していくとともに、
お客さんや世の中の社長、経営したい人にも小規模経営を
書籍やセミナーなどで推進していくことになった。

書籍は前述のデビュー作以降も年1~3作ペースで出し続け、
「朝1時間勉強法」(中経出版)がヒット(43,500部)、
「社長は会社を「大きく」するな!」(ダイヤモンド社)が
20,000部のやや売れ、
「「仕事が速い人」と「仕事が遅い人」の習慣」(明日香出版)
が異例の大ヒット(2017年4月現在144,000部)となった。

プライベイトでは野球と競馬が好きで、野球では自分の子
が在籍していたチームの監督やコーチを務めさせて
もらっている。

野球については現在も現役(2017年一時的にお休み)、
世田谷区1部のチームで外野手と投手を勤務め、毎年
3割以上の打率をマークして盗塁もまだまだいける。

2005年に競馬の師匠と出会い、勝てるようになって投資額が
増えていったが、やはり大数の法則には勝てず、自分のスキル
不足や甘さもあって負けが増えてきたため、2017年からは
大幅に投資額を下げて楽しんでいる状態。

2010年から馬主活動を始める。北海道のセリ市に通い、馬を見極める。予算ないでいい馬がいれば買うが、予算が小さいこともありほとんど買えない。馬を見る修行かもしれない。

馬は全て共有で持ち、基本地方競馬にしか出走できないが、2010年に買った「シラヤマヒメ」が3,000万円以上の賞金を稼ぐ大活躍。関東オークスという大きなレースでも3着するなどして、随分稼いでくれた。

その後は素質馬を買うも、自らの拙い運営方法も祟って成績は低迷している。一度リセットして勉強し、数年後またいい馬を持てるようにしたいと考えている。

2017年現在、長男はトランポリン、次男は野球をやっていて、応援している。紆余曲折あったが、自分がやりたいと決めたことをやるのが一番いい。

今後は税理士事務所の運営を続けていく(多少縮小するかも)と同時に、ビジネス書や小説を書く仕事をしていきたい。小説はまだ新人賞を獲ってもおらず入り口にもいないが、これからやっていく。

また、あまり都会すぎるところに住まずできればコメなどを自給して、時間の余裕を持ちながら生きていきたい。お金はあまり必要ないように思う。

税理士や作家の仕事を通じて、人に少しでもいい影響を与えられたら、といつも考えながら生きている。

これまでと大きく変わる、新しい時代の生き方を探り、お金についての不安をなくす